完全に日記。

車、ライトノベル、DTM。

自分史:趣味の音楽制作について振り返る3

前回記事の続き。高校時代の記憶を掘り起こしてみる。

高校に進学できたものの、遊んでいたせいで第一志望校に落ちてしまい、前回記事にて登場した音楽仲間の友人とは別々の学校に通う展開になった。

……と言っても彼との交流は続き、音楽制作活動も次第にステップアップしていった。

 

友人は進学祝いに、YAMAHAのマルチティンバーシンセサイザー、EOS B500を手に入れていた。当時話題だったTMN小室哲哉モデルで、シーケンサー入りで1台完結できる入門機種だ。自分も欲しくて、すごく羨ましかったことを記憶している。

対して私だが、音楽活動に関して親から理解が得られなかった関係で、欲しかったシンセ購入計画は却下されてしまった。相変わらずの〝お前はパソコンを勉強してプログラマーになれ〟という親の独裁的方針に縛られ、シンセの代わりに進学祝いとして手に入れたのはNECのPC-9801DSとROLANDのミュージ郎Jr.だった。親と揉めた挙げ句の落とし所ではあったが、それでも総額を考えれば(当時バブル期だったとはいえ)私は滅茶苦茶恵まれた子どもだったのは否定できない。

 

 

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で、問題のミュージ郎Jr.である。DTMバンドル製品の先がけとなったミュージ郎シリーズの中でも一番しょぼい音源CM-32Lが同梱されたこの製品では、当時でも自分の目指す音楽が作れる気がしなかった。ゲーム音楽FM音源系のクールな音色や、浅倉大介系の打ち込み音楽が好みの傾向にあった。だからか低価格モデルのLA音源にありがちなファニーすぎる音色群では、何一つノリ切れなかった。友人のクールでカッコいいB500が心底羨ましかったのだ。DASS音源最高。

 

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まあそんなわけでDTM環境を得た私は、作曲や編曲を猛勉強……する性分ではなかったので、とにかく我流で曲を打ち込んでいった。中学時代に入手済みのPSS-790をMIDI接続することで、CM-32Lをシンセ的に演奏できたのが救いだった。

このころでも楽譜は読めたがコード理論が全く理解できず(する気がなく)、ただ気持ちよく感じる音階を弾いて重ねていけば曲なんて出来るじゃん手法で、友人と競い合い、曲は完成したりしなかったりした。

 

やがて転機が訪れた。1991年に登場したROLANDのSound Canvas SC-55を安価に入手できたことで、音源の質的なモチベーションがかなり向上したためだ。

 

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LA音源では得られなかった生々しいサンプリングサウンドもようやく自分の手に。

ROLAND系の明るくキラキラした傾向は相変わらずで自分の嗜好から外れてはいたけれど、この価格帯で得られるクオリティのサウンドでなく、画期的な一台だった

 

SC-55を武器に、YAMAHA主催のコンテストにカセットテープで曲を投稿した。1分にも満たない程度のCMソング的な曲だったものの、五段階評価でBを得られたのが嬉しかった。

さらには友人とともに二人組の音楽ユニットを結成して、TEENS' MUSIC FESTIVALに参加した。

これに関しては地元の楽器店大会で呆気なく敗退したものの、大会後に音源を聴いた主催者のYAMAHA側から要請があり、愛知県千種区にあったYAMAHAのビルに招待された。

担当者曰く「高校生にしてはそれなりの曲を作っているのでYAMAHAとして今後サポートしていきたい」とのことで、なんと本物のレコーディングスタジオでレコーディングしてもらえる展開になったのである。

まさに「まさかのプロデビューへの道筋か?!」的急展開だったが、この話にはちゃんとオチが付いた。

YAMAHA所属のエンジニアにレコーディングしてもらった自分達の曲が、自分達の想い描く路線から大きくかけ離れていて、強く落胆させられたのが一つ。さらにはヴォーカルを担当した友人に対して「いま一歩二歩三歩」なる厳しい評価がレコーディング現場にて下され、友人自身がYAMAHAとの次の機会を棒に振ってしまったからである。

 

そんな結末を経て、高校時代の音楽活動はフェードアウトしていった。音楽ユニット自体も、友人が占めるウェイトの方が大きかった点もある。

私の音楽制作も次第に個人活動へと立ち戻っていき、プロ化の夢などこれ以降考えることはなくなってしまったのだった。

 

次回へ続く。